2015年09月02日

少数派って悪いこと?


人間は一般的に少数派になることを恐れているようです。
なぜかというと、自分はまともな人間だという安心感を
得たいと常に心の奥底で欲しているからです。

たくさんの人間が悪いことをしていても、
他人もみんなそういう悪いことをしているのだから、
と自分自身を納得させ、その悪いことをなんら
悪いことをしているという自覚がないのです。

しかし、悪は悪であり、善は善です。
人がどう理屈づけようとも、はっきりと
善と悪は存在しています。

では、善とは何でしょうか。
悪とは何でしょう。

深い定義とか、いろいろな議論はできるとは思いますが、
簡単に言うと、
善とは、人に喜びを与えること、
悪とは、人に苦しみを与えること、です。


人間は、一般的に、少数派、異常者であると周囲に思われると
生きていけない、のではないかと潜在意識下で
恐れているのだといえるでしょう。

だから、人間は多数派になりたがります。
人と一緒の行動をとりたがります。
人と同じ行動をしていれば、少数派になることはない、
異常者になることはない、とはっきりとは
意識していないかもしれませんが、
心の奥底で思っているからです。

少数派、異常者を迫害し、攻撃するというのは、
そういう少数派、異常者を迫害することで、
自分は正しい、まともである、と自分自身を
肯定したいのだからだと思います。

自分を肯定するのはよい、
だからといって、少数派、異常者を迫害し、
攻撃するという行為は決して許されるものではない。

しかし、そういう多数派になりたがる者たちは、えてして、
少数派、異常者を迫害し、攻撃し、侮蔑し、差別し、
いじめたがるのです。

実に卑劣だといわざるをえません。

なぜか。

それは彼らが潜在意識下で自分がおかしいのではないか、
劣等なのではないか、ということを心の中で恐れているからです。

だから、自分たちが少数派、異常者と認識するものをつくり出し、
そして、彼ら、少数派、異常者を大勢で迫害し、攻撃し、
いじめ、差別することで、自分たちは多数派であり、
まともであり、高等であると信じたいのです。

実にあわれな心境である、といえるでしょう。

もちろん、自分が多数派であり、まともであり、
高等であると信じるのは自由である。

だからといって、少数派、異常者を迫害し、
攻撃し、いじめ、差別する、といった行為は決して
許容されるものではない、のである。

むしろ、彼ら、少数派、異常者、差別されし者たちを
守り、育(はぐく)み、いたわり、彼らが安全に安心して
生きていけるように心を尽くすことこそが、
高貴な人間、心ある人間、自分が良心的であると
思っている人間のあるべき姿であろう。

しかし、そういう勇気ある心ある人間は、
それこそ、少数派である。

しかし、私たちは勇気ある少数派になって、
少数派、異常者、差別されし者たちを
守り、育み、いたわり、彼らが安全に安心して
生きていけるように心を尽くしていこうではありませんか。









posted by jorich at 21:08| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

与えれば与えるほど与えられる


与えれば与えるほど与えられます。
与えなければ与えられません。


奪えば奪われます。
奪えば奪うほど奪われます。


自分が与えたものが自分に返ってきます。


善を与えれば、善が。
悪を与えれば、悪が。


喜びを与えれば、喜びが。
苦しみを与えれば、苦しみが。


いずれにせよ、自分が他者に与えたものが、
数学的正確さをもって、確実に自分に返って来るわけです。

愚かな人間は、
「自分のしたことは決して自分に返ってこないだろう」
と思って、他人に対して悪いことをするわけですが、
そんなことは決してなく、確実に
自分のしたことは自分に返ってくるわけです。


いわゆる、作用反作用の法則です。
仏教的にいうと、自業自得(じごうじとく)です。
「カルマの法則」ともいいます。


イエス・キリストも
「人は自分がまいた種は必ず自分が刈り取らなければならない」
といっています。


仏教では、この法則を
「縁起の理法」ともいい、
厖大な仏教思想の中でも、中心的な思想となっています。


すべて自分のやったことが自分に返ってくるという、
この法則には、ほんの少しの狂いもありません。


すべて自分がしたことが自分に返ってきている、
つまり、自分の苦しみも喜びも
成功も失敗も、すべて自分自身が
つくり出しているのだと言えます。


ですから、人間は精一杯、良い原因をつくるように努力して、
良い報いが自分にやってくるように努力するべきです。


その逆に、もちろん、いくらでも、
悪いこともできますが、
その報いは、すべて自分にやってきて、
決して逃れることはできないのだ、
ということを知らなくてはなりません。


すべての悪い思い、悪い言葉、悪い行いは
自分に苦しみ、不幸となって、返ってきます。


その逆に、
すべての良い思い、良い言葉、良い行いは、
自分に喜び、幸せとなって、返ってきます。

ですから。私たちは良い思い、良い言葉、良い行いにつとめ、
自分のできることで、精一杯、
人や社会に尽くすように努力するべきでしょう。


また、自分が世に与えたものの
10分の1が利益になって返ってくる、
といわれています。


世の中で大きな収入を得ている人は、
みな、例外なく、多くを、人々に、
そして世の中に与え、還元している人ばかりです。


与える量がとてつもなく多いから、
また、自分もとてつもなく与えられる、
ということです。


この逆が、人や社会に危害を加える悪党、犯罪者です。
彼らは徹底的に人から奪い取ります。


彼らは、決して、人に与えようとはしません。
彼らは決して人や社会の幸せや平和や繁栄を願うこともありません。
それどころか、彼らは徹底的に、人から奪って奪って奪いつくそうとします。


まさに、害虫のようなものです。

害虫は蚊(か)でもハエでもゴキブリでも
人間に害を加えるばかりで、決して
人間に利益を与えることはありません。

害虫は決して人間に喜びを与えたり、
幸せを与えたりすることはありません。

とくに、蚊は人間様の大切な血液を
奪い取った挙句に、人間の肌を赤く腫(は)れさせ、
とてつもないかゆみを与える、という不届き者です。

「血液を奪い取るのだったら、1万円ぐらい、置いていきなさい」(・_・;)
と言いたいぐらいのトンデモ野郎です。

こういうふうに、蚊は人間になんの利益も与えないどころか、
人間の大切な血液を奪い取り、人間の皮膚をとてつもなく
かゆくさせる、という苦痛を与える、という
人間にとって、まさに”害虫”と呼ぶしかない存在です。

このように、”害虫”とは、
“存在するだけで人間に忌(い)み嫌われる存在”
です。

だから、人間はこういう害虫を見つけると、
すぐさま、殺虫剤を吹きかけて、
害虫を殺してしまうわけです。

しかし、人間の場合、例え、相手が悪人であろうが、
殺虫剤を吹きかけて、殺してしまうわけにはいきません。

もちろん、殺虫剤を吹きかけられるぐらいで、
人間は死にはしないでしょうが。


ということで、悪人を耐え忍ばなければならない、
という現実があります。

しかし、こちらにも正当防衛の権利があるので、
彼らがこちらに危害を加えてくる場合、
防衛するのは、当然のことでしょう。

さて、そういう他者に危害を加え、
悪の限りを尽くし、人に危害を加えることを
何よりも楽しみにしている悪人たちですが、
その悪人たちの行く末は一体どうなるでしょうか。

そう、それは、まさに、因果応報(いんがおうほう)。
『天網恢恢(てんもうかいかい)、粗にして漏らさず』
(天の網はあらいけれども、決して悪人を逃すことはないという
中国古代の賢人、老子の言葉)

善因善果、悪因悪果-仏陀(ブッダ)
(ぜんいんぜんか、あくいんあっか)。

悲惨な結果になることは目に見えています。

昔から、山賊とか海賊とか盗賊とか、
悪党というのは、たくさんいた、というか、
現代でもたくさんいるわけですが、
彼らは、皆、悲惨な人生を歩むことが多い。

悪党が殺されることも、昔から、よくありました。

まさに、お釈迦様が言ったように、
「悪は悪自らの力で滅びる」
ということですね。

イエス・キリストも
「剣をとるものは剣で滅びる」
といいました。

「悪事、千里を走る(あくじ、せんりをはしる)」
ともいいます。

ですから、私たちは、
彼ら悪人たちを反面教師にして、
一切の悪事はなさず、精一杯、
人や社会に大いに与えて、
そして、その報いとして、
自分もまた大いに与えられる、
そんな人間になることを目指して
努力していきたいものです。




posted by jorich at 09:24| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月27日

あなたが死後、地獄におちなくてすむ方法


あなたが死後、地獄におちなくてすむ方法

人間はいつ死ぬかわかりません。
しかし、唯物論者が考えるように、
死んでそれでおしまいというわけではありません。

私たちの本質である魂、霊は決して死ぬことはありません。
そして、その私たちの本質である魂、霊は死後、
肉体を抜け出してあの世に行きます。
そこで、それぞれの魂、霊の行き先は天国地獄へと分かれます。

世の中を見回してみると、
もし、本当に死後の天国地獄があるとすると(実際あるのですが)、
「この人は地獄におちるだろうな」
と思うような人がいっぱいいるのではありませんか?

そして、地獄行き確実な人ほど、あの世の存在を
必死になって否定するわけです。
「あの世なんかあるわけない」と。

それはそうでしょう、もし死後の地獄があれば、
地獄落ち確実の自分であり、悪いことばかり思い、
悪いことばかり語り、悪いことばかり行ってきたわけですから。
あの世なんてあってほしくないわけです。

このように、地獄に落ちる典型的な人は、
人を害したり、傷つけたり、いじめたりして
人を苦しめて生きてきた人ですね。

いつも人の悪口を言う、とか、人をねたんだりするとかですね。
一言でいうと、人に危害を加えた人です。
心が醜い、きたない、汚れている、
そういう人は地獄に落ちると思います。

また、神仏を信じない人です。
こういう人は死ぬと同時にまっさかさまに
地獄に落ちていくのだと思います。

ようは、心が真っ暗な人ですね。
あの世は心だけの世界であり、心が真っ暗で、
闇に閉ざされていると、真っ暗闇の地獄に落ちるわけです。

よく思うのですが、あの世の地獄というのは3Kです。
ここでいう3Kとは、「暗い、臭い、汚い」(^_^;)の3Kということです。
つまり、地獄というのは、暗くて、臭くて、汚いわけです。
逆に天国というのは、明るくて、美しくて、かぐわしい香りがする、
という素晴らしい世界です。

いやなこと、苦しいこと、つらいこと、悪いこと、汚いこと、など
不快なことが一切ない至福の世界です。

心が美しい人間は死ぬと上に上がっていきます。
心が美しければ美しいほど上に上がっていって、
美しい天国で至福の生活が送れる、というわけです。

ですから、仏教の七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)
「諸悪莫作 衆善奉行 自淨其意 是諸仏教
(しょあくまくさ しゅうぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」(法句経) 
「もろもろの悪をしてはいけません。あらゆるよいことをしましょう。
自分の心を日々清めましょう。これが諸仏の教えである」
という教えは、この教えを守り、生涯行えば死後、
地獄に落ちず、天国に行ける、というわけですね。

人をいじめたり、人に危害を加える姿、というのはまさに鬼そのものです。
あの世は心そのままの姿になりますので、心が鬼であれば、
鬼の姿になってしまうわけです。

ちなみに、しつこくしつこく人をねたんだりするような人間は
あの世でヘビの姿になってしまうそうです。
つまり、しつこくしつこく人をねたむような心というのは、
人間の心ではなく、ヘビの心だということです。

ですから、人をねたむ心を捨てましょう。
人をねたむ心ではなく、人を祝福する心、
人を愛し、人の幸せを願う心を持つように努力しましょう。

また、人の不幸を喜ぶ心、このような心は悪魔、悪霊の心なので、
このような心は捨てるようにするべきです。

「人の不幸は蜜(みつ)の味」といういやな言葉がありますが、
まさにこれこそが悪魔、悪霊の心なのです。
悪魔や悪霊たちは人の不幸が面白くて仕方ないのです。

だから、一生懸命、人を不幸にしようと努力(?)しています。
もちろん、悪魔、悪霊たちとは反対に、天使たちは人々を幸せにしようと
日々努力しています。

それから「しょせん、この世は色と欲」といういやな言葉もあります。
これもまた、悪魔、悪霊の典型的な考え方だといえるでしょう。
神仏を信じ、人のために生きようとする心を否定し、
単に自分の欲得のみを追い求める卑しい姿。
人間としての最後の姿といえるでしょう。

人の不幸を悲しみ、人に危害を加え人を不幸にする悪を憎み、
人の苦しみは取り除いて軽くし、人に幸せを与えていこうという
仏教の「抜苦与楽」の精神こそ、正しい精神です。
天使たちは、みな、このような心で生きています。

大川隆法先生は、人間は60才を過ぎたら(つまり晩年)、
「和顔愛語(わげんあいご)」、つまり、人に対して優しい顔、
優しい言葉につとめてください、といっています。

「和顔(わげん)」とは優しい穏やかな微笑みをたたえた顔、
愛語(あいご)とは人を幸せにするような愛にあふれた言葉、
思いやりある暖かい、人を生かす言葉のことです。

この「和顔愛語(わげんあいご)」というのは60才以上の人間だけではなく、
若くても、子供であっても、どの年齢の人間でも大切だと思います。

一生、この「和顔愛語(わげんあいご)」で生きられたら、
まちがいなく、その人は天国に帰れると思います。
「和顔愛語(わげんあいご)」は天国行きの切符である、というわけです。

「和顔愛語(わげんあいご)」で生きられたら、
死後は天国で幸せに生きられるのだから、
これは「和顔愛語(わげんあいご)」で生きるしかないでしょう。

「和顔愛語(わげんあいご)」とともに、「ありがとう」の
「感謝」の心で生きるとより良いと思います。
何事にも、だれに対しても、たとえいやなことがあっても、
いついかなるときでも、ありがとうの感謝の心に生き、
「ありがとう(ございます)」という言葉を出していくということですね。

一生、優しい心、優しい言葉、良い思い、良い言葉、よい行い、
そして「和顔愛語(わげんあいご)」と「ありがとう」の感謝に
つとめれば、死後は天国に帰れることでしょう。

斎藤一人さんの「愛してます」「ついてる」「うれしい」「たのしい」
「感謝してます」「しあわせ」「ありがとう」「許します」などの
「天国言葉」を口癖にするのもいいと思います。

斎藤一人さんはこの「天国言葉」を口にしていると、天国に行き、
逆に、恐れている、ついてない、不平不満、グチ、泣き言、悪口・文句、
心配ごと、許せない、などの「地獄言葉」をいっていると
100%地獄に落ちると言っています。

皆様が死後、天国に帰れることをお祈りいたします。

目をつぶって、瞑想しながら、
下記の心の指針「不滅への道」の御仏(みほとけ)の言霊(ことだま)に
静かに耳を傾け、自分の過去の人生を振り返ってみて反省してみましょう。
そして、自己の良心に照らして過ちがあれば心の中で仏に謝罪することです。

この反省と謝罪ができないために、死後、多くの人間が
地獄に落ちて今も苦しんでいます。

今、地上に生きている数多くの人間も地上に生きているうちに
反省しなければ、死後、地獄に落ちて苦しむことになるでしょう。

「地獄に落ちた地獄霊で反省できる人間は一人もいない」
という大川隆法先生の言葉を決して忘れてはなりません。

心の指針「不滅への道」 幸福の科学 大川隆法総裁 御法話抜粋
http://youtu.be/YloWpdcxJR0

posted by jorich at 01:04| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間の運命を支配する宇宙の絶対法則・因果律


人間の運命を支配する宇宙の絶対法則・因果律

人間の運命は宇宙の絶対法則である因果律に支配されています。

因果律とは、「原因には必ず結果が伴う」ということです。

これは仏教の最も基本、かつ重要な教えである、「因果応報」ということです。

すなわち、「善因善果(ぜんいんぜんか) 悪因悪果(あくいんあっか) 自因自果(じいんじか)」。
つまり、「よいことにはよいことが、悪いことには悪いことが、やってきます。
また自分のしたことはすべて自分に返ってきます」ということです。

「善因楽果(ぜんいんらっか)  悪因苦果(あくいんくか)」ということでもあります。
すなわち、
「よいことをすれば幸福がやってくるし、悪いことをすれば、自分に苦しみがやって来る」
ということです。

当然、自分が悪い思いを持ち、悪い言葉を語り、悪い行いをすれば、
悪い報いが自分にやってきて、自分が苦しむことになります。

逆に、自分が良い思いを持ち、良い言葉を語り、良い行いをすれば、
良い報いが自分にやってきて、幸福感を味わえるということになります。

この宇宙の絶対法則である因果律が地球はもとより、全宇宙を支配しており、
人間は、決して、この因果律、因果応報の法則から逃れることはできません。

この因果律が理解できれば、なぜ人間の生き方がこれほど違うのか。
なぜ、ある人間は幸福で、ある人間は不幸なのかが理解できるわけです。

すなわち、不幸な人間は自分が不幸になるような悪い種を前世からまき続けていた、
逆に幸福な人間は自分が幸福になるような良い種を前世からまき続けていた、
と考えられるのです。

そこで、仏教では良いことを思い、良い言葉を語り、良い行いをして、
善の種をまき、将来、幸福の実を刈り取ることを教えているわけです。

その仏教の幸福になるための教えの基本的なものに、
「施論 戒論 生天論(せろん かいろん しょうてんろん)」があります。

施論とは、慈悲の心をもって、生きとし生けるものを愛し、特に出家者へ布施を行うことです。
戒論とは、在家の五戒、すなわち
「不殺生(ふせっしょう),不偸盗(ふちゅうとう),不邪淫(ふじゃいん),
不妄語(ふもうご),不飲酒(ふおんじゅ)」
(殺すな 盗むな 不倫をするな ウソをつくな 酒を飲むな)の五つの戒を守ることです。

そして、生天論とは、以上の二つ、施論・戒論を実践して生きれば、
死後、天国に生まれることができます、という教えです。 


大川隆法総裁が仏教的幸福論―施論・戒論・生天論― (幸福の科学大学シリーズ)で「施論 戒論 生天論」についてくわしく解説しているので、ぜひ読むことをおすすめいたします。

仏教的幸福論―施論・戒論・生天論― (幸福の科学大学シリーズ)


この世の苦しみを超えて―――
仏教が求めた「幸福」とは何か。

功徳を積み、生き方を正し、
「来世の幸福」へとつなげる。
歴史に遺された仏陀の「次第説法」を検証し、
その真意を現代人にわかりやすく解説する。

▽施論――布施を通して功徳を積む大切さ
▽戒論――戒律の本質と現代的な解釈とは
▽生天論――来世で幸福な世界へと還るために


目次
まえがき
1 仏陀自身が限りなく「幸福」を求めていた
2 仏陀が説いていた「幸福」の意味とは
3 次第説法(1)――施論
4 次第説法(2)――戒論
5 次第説法(3)――生天論
6 世界宗教に共通する「来世まで続く幸福論」
あとがき



posted by jorich at 01:02| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

すべての人間が守るべき「ゴールデンルール」=「黄金律」

月刊「ヘルメス・エンゼルズ」12月号 みんなが喜ぶことをしよう!No.225参考
http://info.happy-science.jp/magazine/2014/12067/


すべての人間が守るべきゴールデンルールというものがあります。
ゴールデンルールとは、すなわち、「黄金律」ということであり、
人類が存続する限り永遠にその価値を失わない不変のルールです。

では、「ゴールデンルール」=「黄金律」とはどういうことでしょうか。

それは、つまり、
「自分が人からされたく(言われたく)ないことは、
他人に対してしては(言っては)なりません」

また、
「自分が人からされて(言って)ほしいことを、
他人に対してなしなさい(言いなさい)」
ということです。

つまり、
「自分の望むことを人にせよ」
「自分の望まないことを人にするな」
ということです。

これが、「ゴールデンルール」=「黄金律」であり、
さまざまな宗教でも説かれています。

たとえば、

イエス・キリスト(キリスト教)
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
(『マタイによる福音書』7章12節)

孔子(儒教)
「己の欲せざるところ、他に施(ほどこ)すことなかれ」
(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)

ヒンドゥー教
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
(『マハーバーラタ』5:15:17)

ユダヤ教
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」
(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(『トビト記』4章15節)

イスラム教
「あなたがしてもらいたくないような方法で、あなたの兄弟たちを扱ってはならない」
「自分が人から危害を受けたくなければ、だれにも危害を加えないことである」
(ムハンマドの遺言)


このように、多くの宗教でも、この「ゴールデンルール」=「黄金律」が説かれています。
つまり、この「ゴールデンルール」=「黄金律」こそが、
いついかなる時代、地域でも、人間が行うべきルールであるということです。

ところが、実際はどうでしょうか。
この「ゴールデンルール」=「黄金律」は守られているでしょうか。
実際は、この「ゴールデンルール」=「黄金律」を守らない人が
たくさんいるのではありませんか。

たとえば、犯罪者。だれだって犯罪の被害者になりたくはありません。
しかし、犯罪者は人に危害を加え、自分たちの利益をむさぼります。
このように、犯罪者は明らかに「ゴールデンルール」=「黄金律」を犯しています。

犯罪者のように、明らかに法に触れるような人はもちろんですが、
法に触れなくても、この「ゴールデンルール」=「黄金律」を
破っている人はたくさんいるのではありませんか?

たとえば、人をいじめる人(いじめは犯罪です)。
自分はいじめられたくないのに、なぜいじめるのですか。

たとえば、人の悪口をいう人。
自分は悪口をいわれたくないのに、なぜ人の悪口をいうのですか。

その他、人を害する人、傷つける人、
人にめいわくをかける人、あざ笑う人、おとしめる人、
人にひどいことをいったり、怒ったり、怒鳴りつけたり、などなど、
例をあげたらキリがありません。
自分は決して人にされたくないのに、
なぜ人に対してそういうことができるのですか。

こういう人たちはすべて、「ゴールデンルール」=「黄金律」を破っています。
そして、「ゴールデンルール」=「黄金律」を破る人たちは地獄に落ちます。
逆に「ゴールデンルール」=「黄金律」を守る人たちは天国に行きます。

「ゴールデンルール」=「黄金律」を守ることが「善」であり、
「ゴールデンルール」=「黄金律」を破ることが「悪」なのです。

「ゴールデンルール」=「黄金律」を机上の空論、
きれいごと、単なる絵空事とお思いでしょうか。

「ゴールデンルール」=「黄金律」は決して机上の空論、
きれいごと、単なる絵空事ではありません。

事実、歴史上、多くの成功者が「ゴールデンルール」=「黄金律」を
実践して、成功したという事実があります。

あのアメリカの鉄鋼王・アンドリュー・カーネギーも
「ゴールデンルール」=「黄金律」を実践し、
大富豪となりましたが、「ゴールデンルール」=「黄金律」に基づき、
その巨万の富のほとんどを社会のために寄付しました。

アンドリュー・カーネギー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%83%BC

このように、「ゴールデンルール」=「黄金律」は決して机上の空論、
きれいごと、単なる絵空事ではなく、永遠に人類が守り、実践するべき
不変の価値ある真実のルールなのです。
posted by jorich at 01:02| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この世は善と悪を学ぶ学校である。


この世は善と悪を学ぶ学校である。

人間は永遠の生命を生き、その生命はこの世とあの世を
永遠に行き来するという生まれ変わり、すなわち、
輪廻転生を繰り返しています。

人間はなんのために地上に生まれ変わってくるのでしょうか。
もし、あの世というものがあり、天国というものがあるなら、
その天国にずっといたほうがいいのではないでしょうか。

ところが、人間は何百年かたつと、地上に生まれてきます。
つまり、地上は義務教育の場として設定されており、
あの世にずっといると、魂の進化が止まってしまうので、
地上に生まれてくるのだと言われています。

あの世、天国というのは、この世とは正反対で、完全に自由であり、
なんの苦しみもない世界であり、なんの努力もいらない世界です。

そういう世界に長年いると魂の成長が止まってしまうので、
地上に生まれてくるのだと言えます。

しかし、ここで、問題になるのは、悪の存在、悪人の存在です。
この世には明らかに、悪、悪人というものが存在します。

仏は悪人をつくってはいません。
すなわち、根っからの悪人というものは存在しません。

すべての人間は天国から生まれてきます。
天国から生まれてきたということは、みんな善人だったはずです。
しかし、この世には明らかに、悪、悪人が存在します。

なぜでしょうか。
それは、つまり、人間には選択の自由、すなわち、自由意思が許されていて、
善でも悪でも選べるようになっているということです。

なぜそうなのかというと、この世は善悪を学ぶ学校であり、
修行場であるからです。

つまり、この世というものは、学校であり、
善とは何か、悪とは何か、美とは何か、醜とは何か、などなど
あらゆることを学び、実地体験するために存在しているのだと言えます。

人間に自由意思が与えられているのは、悪をしていいというわけではなく、
その自由意思を用いて、善をなすことができるかどうかを
試されているのだと思われます。

地上という善でも悪でもできる環境下において、善をなした人は、
死後、天国に帰り、悪をした人は地獄に落ちる、ということですが、
長い目で見れば、人間はこの世という学校で、
何が善であり、何が悪であるのかを学び、
自己の魂の成長を目指しているのだと言えるでしょう。
posted by jorich at 01:01| 管理人の個人的な考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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